LEGO社の社歴(1)20230715

「レゴ」という言葉を聞いたことにある人は、たくさんいると思いますが、レゴ社はデンマークの会社で、家族企業だということを知っている人は少ないと思っています。

レゴ社は現在4世代目になっていますが、起業したのはオーレ・キエク・クリスチャンセン(Ole Kirk Christiansen 1891-1958)という人で、彼は大工の資格を持ち、1916年デンマークユトランド半島中部に所在するビルロンド(Billund )という田舎町にあった不動産(作業場の付いた家)を銀行から1万クローネを借入れ買い取った。これがレゴ社の始まりです。

以下レゴ社の社歴に関し、Jens Andersenの書著「 Et liv med Lego」(意訳:レゴの社歴)を基に記述します。

起業家オーレは銀行からのローンを受けるに当たり、兄弟に保証人になって貰っている。彼の生まれたデンマーク・ユトランド中西部はキリスト教への信仰が強くオーレもその影響を受け育ち、投資に当たり、「神の支援」を信じ何とかなるという気持ちがあった。1916年25歳になった4月クリスチナ ソーレンセンと結婚し翌年長男が生まれた。1917年に生まれた長男の名前はヨハネス、1919年次男カール・ゲオが生まれ1920年には事業を継ぐことになった三男グーフレ、そして1926年 には4男ゲンハードが生まれた。オーレの妻クリスチナは早くして他界したため、彼は1934年ソフィア・ヨーゲンセンと結婚し翌年に娘ウラ・スコウを授かった。

Billundは田舎村であったがオーレが住み始めた頃でも駅があり、郵便、学校、宿、ミッションハウス、小売店他大きな農場が5軒、と小作農が数多くあった。村には30軒程の住宅があり人口は100名ほどであった。オーレ・キエク・クリスチャンセンが買い取った不動産(作業場が付いた家)はBillund の町はずれにあり、周辺は見渡す限りヒースが生えた荒野で、「神から見捨てられて場所」と呼んだ人がいたほどの土地であった。そんな土地に住む人達が「希望」として求めたのは神への信仰であった。

デンマーク社会をキリスト教の国に決めたのは国王でバイキング時代に遡り、今日のルーテル教を基盤とした国教を採り入れたのはクリスチャン三世時代で1536年であった。そんなことから国民の「ルーテル教」の教えを基に生きることについての歴史は長く、人は苦難から抜け出すため神に助け求め生き延びてきた。第一大戦後のデンマークの都市は労働運動が活発化し、地方においては神をおそれ倹約に努める生き方を習得するための国内福音普及活動が広がり、その活動の一環としてデンマークの集落には住民によって数多くのミッションハウスと呼ぶ集会所が作られた。

オーレ・キエク・クリスチャンセンの事業所は「Billund Maskinsnedkere  & Tømmerforretning」(ビルルンド建具・大工店)と呼び顧客間における評判は良かった、第一次世界大戦で中立を守ったデンマークは戦争による特需(肉や穀類など)があったことで農家は建物の修理や増築がありオーレの仕事はあった、しかし第一次大戦後、世界的不景気がデンマーク経済にも影響し、農家も経済的ゆとりがなく、オーレの仕事も無くなってきたがそれでも、彼は熟練大工と見習い大工を雇い、大きな建物の建設も手掛けて来た。オーレは作業でミスを犯した雇い大工を怒ることをせず、「間違いを通し覚える」ことだと語っていた。オーレの所で見習いをした大工は「大工の仕事以上に人として生きることを教わった」と語っていた。オーレの子供たちは国内福音普及活動の影響を受けて育った。1917年にオーレの所に14歳で見習いに入ったビゴ(Viggo)は作業場の2階で寝泊まりしオーレの家族と共に暮らすことになるが、食事の前に神への祈りと感謝を捧げる習慣が出来ていた。時には賛美歌を歌い見習いのビゴも参加することになっていた。この当時、見習期間は4年間で住まいと食事以外給料は出なかった。ただオーレはビゴに給料の替わりに作業場で出る木の削り屑を集めることを許可し、ストーブの点火材として一袋10オーレで売ること認めた。その他親が出かけた後の子守り代も得ることが出来た。仕事の後、作業場においてある工具を使うこと許し、ビゴは残り材を利用し、帽子掛け、本箱、人形用家具や玩具を作り、町の市場で売ることを許した。オーレがビゴに伝えたことは「材料費などの計算書を作ることを忘れるな」ということだった。この当時農場主と言え、窓やドアーの修理に現金での支払いが難しかったこともあり、農作物で受けとらざる得ないこともあった。

オーレが工事代金を取れなかったのは農場主以外もあった。最初の大工事となった教会の建設に加担し1919年から1921年の3年間にかけて建設したが、工事費用全額出なかった。彼は「大きな意味のある建設工事だった」、として天からの将来に向けた投資だとして受け止めている。資金繰りが厳しくなると、その都度封筒に金を入れ見習いで入ったビゴを銀行に走らせ、債務者が取り立てに入らないよう交渉させた。職場から銀行までの距離は砂利道で片道15㎞もあり、自転車で銀行の窓口が閉まる午後3時までに使いを済ませなければならないビゴ としては途中自転車のタイヤがパンクしたらどうするか、心配しながらの使いとなった。1921年11月ビゴ は見習いから建具職人となったが、就職先が無かったためオーレの所で働くことなった。報酬は寝泊まりと食事付で週10クローネだった。この頃オーレは資金繰りに困っており、これ以上の給料は出せなかった。作業場には窓やドアー、台所用備品などの建具を作る道具や機械を備えていたので、ビゴは作業場でこれらの建具作りに専念した。

1924年4月末の日曜日、昼寝をしていたオーレが作業場の「火事」で起こされた。火事の原因となったのは、5歳のカール・ゲオと4歳のグーフレが作業場に忍びこみ、作業場で遊びながら隣に住む娘に挙げるための人形用の家具を作っていた。作業場が寒かったので、ストーブに火を入れることにしカンナ屑を点火材として使ったがそれが別なカンナ屑に燃え移った。二階で寝ていた見習いのビゴ が気付き、急ぎ降りてきたが既に手遅れで、僅かの家具と工具を運び出した以外は全て燃やしてしまった。オーレにとっては生涯の夢が火災で灰となってしまったが、近所の支援を受け、雑貨商店(Brugsen) の2階に家族で移り住むことが出来た。火災で作業場を失ったがオーレは仲間との仕事に従事することにした。その一つに、町の中に協同組合が酪農工場を建てることになり、その工事に入りで設計士と面識を持った。設計士イエスパーセンは別な町から来た人であったが、オーレは火災の跡地に住宅と作業場を建てること決め、イエスパーセンに図面作成を依頼した。住宅と作業場の建設費がかさみ膨大な借金をすることになるわけだが、オーレは「借金の返済はこの先何年もかかるだろう」と語っていた。この当時オーレが採った建設工事は住宅に重点を置いたことである。この当時の事業家はお金を稼ぐための設備に重点を置き、住まいの建設は余裕があった場合に建てるというのが常識となっていた。それに反しオーレが採った工事では母屋となる家を立派に作ることであった。1924年夏家の形が出来上がって来た、支払いに関しオーレは酪農工場の建設で稼いだお金の買掛金の取り立てを設計士のイエスパーセンに依頼した。依頼を受けイエスパーセンは酪農工場長にオーレに2,000クローネを直ちに支払うよう伝えた。オーレが建てた家と作業場は集落の中で最も立派な建て物となった。歩道をコンクリートで固めたの彼が町で初めてであった。

災害は一度だけで終わらないということわざにある通り、家と作業場が完成した1年後の8月、落雷で作業場が火災となり、機械、備品、受けた仕事で制作した半製品を燃やしてしまった。火災の被害額は45,000クローネと見込まれ、オーレは再度事業をスタートから始めることになった。1929年10月、アメリカの株式取引上の暴落がヨーロッパにも波及し、デンマークの通商相手大国であるイギリス、ドイツに不況が押し寄せ、穀類価格の下落し、バター豚肉も急落した。農家が不況になると建設業である建具屋、大工も仕事が無くなり、失業者が増え、労使間の紛争と倒産が相次いだ。この不況はオーレの事業にも影響した。1931年秋の朝やつれた顔をしたオーレは町内を車で周り売掛金の取り立てに出た。現金が徴収できなくても、最低でも借用証書に署名をもらうため周り歩いた。オーレはお金の取り立てには自分でもわかっていたようで、向いていなかった、そんなことで何時もなら金の取り立ては10歳になった息子のグーフレ任せていたがこの朝は事業が倒産するか否かの瀬戸際に追い込まれていたため、息子ではなく、自分で金の徴収に出た。最後に訪ねた先は農場主で作業代35クローネが未払いになっていた。オーレは農場主イエンスにあうと「イエンス未払になっている35クローネ払ってくれないか、今日未払になっている15ヵ所周ってきたけど、だれも金は出してくれなかったし、借用書も書いてくれなかった」農場主イエンスは「クリスチャン(オーレのミドル名)払いたいけど、1銭も持ち合わせていない、この間売った豚も買値よりも安くしか売れなかった。現金の代わりにチーズがあるので、少し持って行かないか」が、オーレが得た返答だった。オーレは農場主に「悪いけど借用書に署名してくれないか、そうしてくれたら明日まで何とか持ち越せる」農場主「いつ払えれか解らないが、借用書に署名する」、オーレ「15軒周って初めて借用書がとれて助かる」と語っている。

1930年代初め農家は採算が採れる経営は出来ず、設備投資、建物の修理に充てるお金が無かった。オーレは工務店から材料仕入に「つけ」で買うこともできなくなった。大きな農場が火災で焼け、農場主から再建の依頼がオーレに入ったが、材木商はクレジット販売に応じなかった。オーレ事業は行きづまりになった。1932年を迎えオーレは「神の支援が必ずある」と信じ希望を失うことはなかった。作業場では子供たちと見習い大工が一緒になって踏み台、タブレット(平板), 搾乳用の小椅子, クリスマスツリー用台、玩具など木でいろいろな物をつくり、売ることにした。

オーレは大したお金にはならないが、木の作ったいろいろな物が増えることは嬉しかった。1932年春、オーレの作業場に二人の人が訪ねてきた。その一人は木材商を営むオーレセンという人で彼は取引仲間を連れオーレを訪ねてきた。この頃多くの大工や建具業社は倒産し、建設業は不況であった。そんな中でオーレが作った梯子、小型椅子、アイロン台、玩具のトラックなど、質の高い木で作った製品の下見と紹介するための訪問であった。注目したのは綺麗に塗装されて輝く玩具のトラックであった。オーレセンと仲間はその場で大量の注文をし、納期は8月とした。オーレセンによるとクリスマスの子供たちのプレゼントとして小売り店に卸し、完売できるという見込みがあった。オーレは二人をコーヒーに招き、その場でオーレセンは「デンマークの労働運動」を語り、デンマーク人はデンマーク製品を買うことでデンマークの手工業者を守るという声明を発表しているので、将来オーレが作っている玩具は売れるはずだと彼の見通しを語ってくれた。そしてオーレに展示会に参加し製品の展示をすることを勧めた。そのようなことを知らなかったオーレはこの時、「もしかしたらこの道を選ぶべきか」を語り、踏み台、木で作った車やその他の玩具を作り販売することを決め、兄弟からの経済的支援を得て、この道に入った。なお、兄弟から借りたお金は10年後に返済している。町の人たちはオーレが大工・建具屋から玩具作りに走ったことを見て、大工として十分な才能を持ち合わせているにも関わらず、玩具作りに走るとは理解できなかった。1932年夏に従業員とオーレ家族が作業場で作った製品の写真が残っているが、その中には梯子、トラック、踏み台、飛行機などの玩具が写っている。オーレが作った遊び道具の中に木で作ったヨーヨーがあり大きな売上となった。玩具の製造で忙しい中オーレの妊婦の妻クリスチナは病気になり、胎児は死産、9月彼女も僅か40歳の年で他界した。敬虔なクリスチャンであったオーレは若くして他界した妻のことで、一時期神の信仰に疑問を持ち、それから10年間ミッションハウスの理事職を離れた。オーレは妻を失い母親を恋しがる15歳から6歳の子供4人を抱え、家事から養育まで受け持つことになった。6歳の子は父親を手伝うには早すぎた。13歳になったカール・ゲオは大工の見習いとなった。12歳のグーフレは弱小で弱かった。

材木商が8月に引き取りに来る約束で発注した膨大な品物はホコリをかぶり倉庫に眠っていた。オーレは確かな売上として期待しての受給であったが、材木商は倒産したため、充てにしていた収入が無くなった。オーレは翌朝売れなかった品物を車に積み込み、小売店から小売店と店頭販売に出かけた。オーレ自身セールには向いていないことを自覚しており、セール活動には大きな成果は無かった。現金の代わりに物と交換したりしての販売となったが受け取った物はクリスマス用の食糧に充てた。1933年業績が伸びず、資金のやり繰りは続いた。大量のヨーヨー(玩具)在庫を抱え、新聞広告に大安売りの宣伝をしたが、売れなかった。資金繰りで苦労する中、オーレは妻が他界した後の淋しさに悩まされるのである。家事や日常雑多の手伝い人を雇っていたが、彼女は1933年10月1日付けで退職し出ることになった。新たに手伝い人を探すために「家政婦求む」を新聞に出した。その広告を見て多くの人が応募した来たその中から選んだのが37歳のソフィア・ヨーゲンセンである。出会いからオーレとソフィアは気が合ったようで、ソフィアが務め初めて7カ月後の1934年5月10日二人は結婚した。ソフィアはオーレとの結婚に当たり自分の貯金1000クローネをオーレに渡した。オーレはソフィアから貰い受けた1000クローネで倒産から免れることが出来た。オーレは業務上で知り合った弁護士のアドバイスにより社名を変えることした。オーレが決めた社名はLEGO(LEGOの社名はLeg godtを合わせて出来た)、(leg 遊ぶ、godt良く、よってLEGOの日本語での意味は良く遊ぶという意味) であった。LEGOのラテン語の意味は「組み立てる」と語られている。1935年の春オーレとソフィアとの間に娘ウラが生まれた。二人の間にはウラ以外の子供はいない。1936年売上も伸びたが、オーレが保証人になった借入金のつけとその他の借金など会社の資金繰りの難しさが続いた。弁護士のアドバイスを受け、1935年母屋と作業場の名義人をソフィアに変えオーレの事業が倒産しても母屋と作業場は残れるようにした。それから1944年までの約10年間Lego社は株式会社となり売上含め建物全てソフィア名義とした。    以下その2に続く