私の生家「小白屋敷」について

私の生家は岩手県の県南にあります。汽車の路線ですと一関駅から気仙沼に向う大船渡線に乗り「猊鼻渓駅」で降ります。降りた町が東山町長坂です。タクシーを利用する場合は、「小白の関の畑」で分かります。私の生家に歩いて行くためには「猊鼻渓駅」で降り、駅の雑木林が続く裏山の急な坂道を約30分歩きますと山の峠に着きます。峠を越えると小白という集落が見えてきます。その峠からは道は下り坂になっており、その道は小川が流れる平坦地に続いています。私の生家はその平坦地から左手方向に向う田んぼ沿いの道路を500メートルほど行くとまた小川があり、そこから坂道が続いていますが、その坂道を登りきった場所にあります。    

現在の生家の住所は、手県東山町松川字小白となっていますが、家の歴史は古く、町史によれば、1668年当時小白屋敷は3軒あったとされています。私の生家はその内のいずれに該当するか判りませんが、小白屋敷3軒について町史に次ぎのようなデータが載っています。

寛文8年(1668年)松川村高人数御改帳による小白屋敷3軒について:

 

①小白屋敷 帯刀(タテワキ) 

②小白屋敷 清右エ門

③小白屋敷 喜兵衛

上記三軒の家族構成と資産状況について:

 ①小白屋敷 帯刀 高 壱貫弐百四文、外に新田百弐拾七文 

  家主帯刀62歳、妻52歳、子供は孫七30歳、女房28歳、孫四郎18歳、女房19

     歳、女子X14歳、孫辻13歳、

    下人:満九郎27歳、太郎16歳、三五郎44歳、下女:とうま27歳、おちや31

     歳

  扶持喰:又市36歳、扶持喰男八4歳、下女たけ4歳、

  名子 平七35歳、女房33歳、男子太郎13歳、女子にか4歳、女子松2歳

弟孫惣22歳、女房19歳、母71歳、下人、猪21

     合計25人、内男13人、女12名  

②小白屋敷 清右エ門 高5百文 外に新田四拾四文

  家主清右エ門58歳、女房43歳、子、丹助23歳、女房23歳、女子、おたら、

  男子、清九郎21歳、女房19歳、男子おとこ16歳、女子めこ14歳、下人、

    ひと27歳

     合計10人内男5人、女5 

③小白屋敷 喜兵衛 高六百拾七文 外に新田七拾文

   家主喜兵衛62歳、女房52歳、男子太郎八23歳、女房20歳、男子太郎3歳、

   男子太郎七18歳、女子おはな13歳、男子よて11歳、弟 喜左エ門46歳、

   女房38歳、男子長作18歳、女房18歳、男子己ノ15歳、男子五郎11歳、

   女子いや8歳、男子奥5歳、下人猿12歳、

      合計17人、内男11人、女6人

 

上記の内どれかが、私の生家の祖先であったようです。今、の生家には90歳になる母を含め四世代8名の人が住んでいますが、今から336年前も大家族であったことを見ると、長い歴史はそのまま継続されているような感じがします。

かしながら、その後どのような過程を得て現在につながって来たのか、祖父の時代以前については殆ど分かりません。私の祖父からの家系についてみると次の通りです。 

 

左の写真は何時撮られたのか分かりません。私の父貞雄(前列左から3人目の大人)が子供を抱いている姿がありますが、結婚前の写真だと思います。貞雄の妹きみこ(右端子供を背負っている)の姿も見えます。

私の祖父鈴木貞三郎には、「かめ」、「きく」の姉二人と妹「はるの」と「ナツノ」、弟には、貞治がいました。鈴木貞三郎と妻「その」間には、私の父となる長男の鈴木貞雄の妹きみこ?、妹ちゑ子がいました。

鈴木貞雄(亡)とタケの間には長女のトシ子、長男、時市、次男、勝郎(亡)次女、和枝、そして三男の私(健司)、四男、博、そして三女久代がいます。長男の時市と妻志摩子との間には長女のかおり、次女の幸子、三女、千春、そして四女、美由紀がいます。そして2004年現在、長女のかおりと婿、進との間には長女、美里、次女、愛、三女の成美がいます。こういうことで200412月現在小白屋敷には四世代計8人が生活をともにしています。

家系図で見ると、祖父の兄弟・姉妹の子供達と私の父の兄弟・姉妹が結婚しているということです。例えば、祖父の妹「はるの」は青柳周吉に嫁ぎましたが、その子供である青柳重雄の妻は鈴木貞雄の妹「ちゑこ」と結婚しています。また祖父の妹「ナツノ」は水城貞助と結婚し、その子供である水城惣吾の妻は鈴木貞雄の長女「トシ子」です。

 

私の子供時代

私が生まれたのは、第二次世界大戦が終わらない昭和19724日ですが、父が出兵(海軍の内陸勤務)したため、当時の多くの母親が経験したように、沢山の子供を抱えた母は、子育てと家事や野良仕事に大変苦労したそうです。そんなこともあったためか、私が生まれた時、母は母乳が出ず、近所に住む少なくとも4人のお母さんのもらい乳と、炊飯中に上に出る米汁で育ったと聞かされました。出生後に十分な母乳が貰えなかったことが、体のどこかにしみ込んでいたのか、それから何十年も経ち、デンマークの渡り、農場で豚の世話をしていた頃、子豚が母親豚のおっぱいを吸っているのを見て羨ましく、また憎らしく思ったくらいで、母乳なしで育った赤子の時代を体が覚えていたようでした。 私が通った小学校は松川小学校ですが、学校までの距離は約4kmもあり、山道の中を往復歩いて通いました。今の生家に居る子供達は車で出迎えしてもらっていますが、私達の場合、自転車さえ使えない山道であったため、歩くしか方法はありませんでした。私が中学に通うころになって道路の拡張工事が始まり、私の父は道路が出来ることで田畑がつぶされる人達を説得し、道路の工事を進めて行ったことを覚えています。私の生家は過去において資産家だったらしいが、私が育った頃は小作農でした。資産家から小作農になった理由について、私の父の妹と結婚した青柳重雄氏の話で説明したいと思います。

 

宮沢賢治と私の実家について:

 

私の生家と宮沢賢治の関係を表す写真を紹介します。 この写真は昭和6326日に撮られたものです。宮沢賢治は昭和611日「東北砕石工場」の技師として採用されました。この写真は宮沢賢治が「東北砕石工場」の技師となって始めて訪れたときに撮った写真ですが、後列左から5人目が宮沢賢治で私の祖父祖父鈴木貞三郎は左から3人目に写っています。

「東北砕石工場」は大正13年、私の祖父鈴木貞三郎と鈴木東蔵との共同経営として創業しました。鈴木東蔵の奥さんは、鈴木貞三郎の姉「かめ」の次女「まつの」です。東北砕石工場を創業するきっかけとなったのは、私の祖父の弟である、鈴木貞助(後、花巻の川村家の養子になり姓は川村になる)が小岩井農場に勤めており、小岩井農場の農地改良に石灰が必要であったことから兄であった私の祖父が鈴木東蔵の協力をもとに始めました。 鈴木東蔵は早くから、疲弊する農村の救済を目指し、「石のことなら東蔵」と言われている位、地元における石灰岩の情報を把握していました。ただ、事業をスタートする資本が無く、鈴木東蔵の件について書いた資料で見る限り、常にお金のやりくりに苦労していた人です。 私の実家は小白屋敷、家名、「関の畑」と呼ばれていますが、祖父が東北砕石工場の共同経営という事業でどのような役割を果たしたか、書き留めた資料が無いため、判りませんが、私の母や親族の話しを聞きますと実家の水田や山林など資産を全部この砕石工場の運営につぎ込んだと語られ、例えば事務所の建物に使った材料は、生家の蔵材を使用したともいわれています。私の母の話では、東北砕石工場の借金のツケは生家の母屋まで及び、それだけではなく、母の嫁入り道具であった「箪笥」にも差し押さえの赤紙が張られたと語っていました。

宮沢賢治が私の祖父が経営する東北砕石工場との関係が出来たのは昭和61月からですが、それに先駆け、昭和4年頃から鈴木東蔵と宮沢賢治の交流が、「石灰の販売」ということで始っています。 宮沢賢治と「東北砕石工場」との雇用契約は宮沢賢治の父、宮沢政次郎と鈴木東蔵との間で交わされていますが、雇用条件は宮沢賢治を技師として採用し、報酬は年600円(但し、初年度は500円)ということになっていました。「当時村長の月給が35円といわれていた時代に月額50円の給与は非常に高額であった」と鈴木東蔵の長男の鈴木実が書いています。「東北砕石工場」が必要とする設備購入の資金繰りを誰がしたのか、従業員給与はどのようにして確保し、誰がその資金を出したか、鈴木東蔵の回顧録を書いた鈴木東蔵の4男の鈴木豊の本で見ると「父は資金のやりくりでいつも苦労していていた」と書き、東北砕石工場の資金繰りは非常に厳しかった思います。その中でも共同経営を勤めた祖父は、所持していた資産を処分しながら、東北砕石工場の資金繰りに協力していたことは間違いなく、その結果、私の実家の資産がゼロになり、その負担が私の両親まで及んだと推察して良いと思います、何故ならば、私の両親は借金を抱え、長い年月その返済を続けていました。

宮沢賢治は、私の祖父が共同経営する東北砕石工場に辞令を受けて勤務した期間はわずか9ヶ月です。「東北砕石工場のセールスマン」として頑張ってくれたことを知ったのは、ごく最近のことです。 私が子供の頃、石灰工場「タンカル」(東北砕石工場は倒産し昭和128月東北砕石株式会社に改名、翌年の昭和139月タンカルという名前となった)の前に「雨にもまけず、風にもまけず、雪にも夏の暑さにもまけぬ、じょうぶな体をもち」とう詩が大きなパネルに張られていたことを思い出しますが、まさか、私の生家とこの詩を書いた宮沢賢治が関係しているとは思いもよりませんでした。ましてや、私の祖父が弟が勤務する小岩井農場の農地改良に必要な石灰を生産するために、始めた事業とこの詩が関係していたとは、考えていませんでしたし、私の祖父の弟が勤務する小岩井農場の農地改良に必要な石灰を生産するための事業とこの詩が関係していたとは、考えてもいませんでした。

私の実家と「東北砕石工場」そして宮沢賢治との関係について、今は故人となりましたが、青柳重雄が父の法事の席で語った「思い出話」をここに紹介します。青柳重雄は私の父、鈴木貞雄の妹ちゑこと結婚し国鉄に勤務していました。第二次世界大戦では「死の鉄道」とも呼ばれたタイとビルマをつなぐ鉄道工事に携わった人です。この鉄道はその後、映画、「戦場にかける橋」のテーマになりましたが、青柳重雄はこの泰緬鉄道の建設に3年間勤めました。(注:泰緬鉄道とは、タイのノンブラドックからビルマのタンビザヤ間を結ぶ415.91kmの鉄道の路線工事のことで、日本兵及び鉄道員約14千人、捕虜約55千人、現地の労務者約9万人合計159千人が膨大な犠牲を払いながら14日月をかけて敷設した鉄道で、両国側から始めた鉄道工事が連結したのが昭和181017日である。)

「鈴木家(関の畑)の法要での故人の思い出話」

皆さん今日は、私はただいまご紹介に預かりました摺沢の青柳です。本日は菩提寺宗松寺方丈様のもとで鄭重な法要を執い行われ、またご近親の皆様の篤いお線香を賜り感激に浸かっているところでございます。

さて、私ご当家の御沸九柱様を全部存じあげておりませんので、その中の五柱様について簡単に思い出の一端を申しあげ追悼といたしたいと思います。

まず、「くら」お婆さんについてですが、実は私には祖母に当たるわけで84歳でなくなっています。私が18歳のときということになります。私は幼い頃からよく母に連れられてこの関の畑に参りました。するとお婆ちゃんは何時も笑顔を浮かべ「よく来たなあー」といって涙するのでした。その声と顔の慈は子供心にも優しい温かいお婆さんとして、今も忘れることはありません。後日、母は誰にも優しい人で涙もろい人であることを話し聞かされました。殊に川村の叔父などが盛岡の学校に行くと、休みで帰ると涙で迎え、涙で送る人だったとか。 貞助叔父が盛岡に行くときは、何時も庭先に出て峠の見えなくなるまで見送り涙していたものだったとのこと。いまデンマークに行く健司君そして見送る母の心察するに余りあるものがございます。

次に私より1級上の貞二君について話てみたいと思います。

小学生の頃は長坂の得二君(鈴木東蔵氏の二男)と年齢は同じでしたので夏休みになると関の畑によく泊まりに来きたものです。そして3人は揃って、山や川に遊んだものでした、殊に「猊鼻渓ののぞき岩」といって名称げいび岩の近くの川面から約120メートルの高い絶壁をなす岩の上に伏せて、下の川や川原を望んだのでした。人がいないのを見計らって予め拾い集めてきた石を一つ一つ落とすのです。すると「ドブーン」という水の音が暫くしてこだまするのでした。それが何ともいえない神秘的なものでした。また、岩から下をのぞくと余りの高さに次第に背筋が寒くなる感じでした。3人は誰いうともなく恐ろしくなり帰ろうというのでした。ほんとうに今でもその思いが恐ろしく感じております。暑い日には、関の畑の下に水の流れない小川があって、川面は岩ばかりで川岸は密林のようで、恰も探検隊の心地で猊鼻渓名勝湖桃渓ということろに出たものでした。清く澄んだ砂鉄川に3人は水遊びを楽しんだものでした。競走で向こうの川原に泳いだり、高い岩から飛込んだり、きれいな川底の石を拾ったり、遊びは尽きなかったが、冷たい川水は私達の唇を紫色にし、肌は鳥肌とブルブル震えながら帰宅したものでした。 猊鼻渓のいまは観光客で賑いそんな遊びもできないようですが、たまたま観光客として舟で訪れると昔を思い出して二人を偲んでいます。 得二君は満州で20才位で戦死しています。貞二はその後東京に出て時計店に勤めていたが、病を得て帰らぬ人となり淋しい限り、今頃までの健在でいてくれたら私の最もよき相談や話し相手となっていたでしょう。 

次に今回17回忌に当たる貞雄兄さんについてお話をしてみたいと思います。 何時頃のことか忘れていましたが、こんな話をされました。

おら家の父貞三郎と母ソノはほんとうに苦労ばかりして死んで仕舞うた。殊に石灰工場については何も得るところなく空しい思いで死んだのさ、母はまた事業の失敗を受けて筆舌に書けぬ苦労をして死んだ。昔は相当の財産があって小白屋敷と云われた家だったんだがその殆どを石灰工場に資ぎ込んだからなあ。・・・・どうして、石灰工場なんて始めたんだろうと私が問いましたところ、・・・ 大正の末頃再三小岩井農場の弟貞助のところに行って軍馬だ、競走馬だ、あるいは挽馬と買い商いをしていたのだったが、とある日広大な小岩井の農地に白い粉を撒布したいるのを見て不思議に思い弟貞助に白い粉は何だろう。何のために撒くのであろうと問うたところ、「あれは石灰というもので福島県でできたもので此の辺の土地では是非使われなければならないし、つまり酸性土壌をアルカリに改良する謂いる土壌改良なのだ。農作物の収穫は著しく増収になる。この粉は猊鼻渓のあの石と同じものを砕き粉にしたものだ」。貞三郎は驚きうなづいて、小岩井農場ではこの粉を買ってくれるかと聞いたところ、これからの農業では大分使用されるし小岩井農場でも買うことを話されたのでした。 以来貞三郎は気にしていたがなかなか機会もなかったが、当時石のことなら東蔵という評判を得ていたので、話を持掛けた訳でした。東蔵は貞三郎の姉「かめ」長坂上野に嫁いで出来た次女「まつの」の亭主だったので親密にお話ができた訳です。東蔵は我が意を得たりと、東山の鉱脈、鉱区権、採石、砕石について説明し、いろいろ調査をして貞三郎に企業を奨めた由。その後再三の打合せで会社設立、工場建設と話が進み大正14年に東北砕石工場を設立し貞三郎自ら社長となり、鈴木東蔵は工場長、鈴木貞治(貞三郎の弟)は事務長として発足したのでありました。貞三郎は我が家の一角にあった米貯蔵庫を搬出して砕石工場の事務所工場に当て(いまも東北タンカル工場に骨柱として現存しています)砕石工場の一歩を踏出した訳でした。自分は16歳で当社工員として砕石労働に従事、大きな石の臼、石の杵を振って製粉作業を続けたという、漸くにして貨車1台の製品ができ、あの小川で塩カマスを洗いそれに詰め縄にてくくり、貨車に積み工場全員の喜びの声に送られて小岩井農場に向けて出荷されたのは大船渡線開通(大正14724日、一の関~摺沢間)後間もなくだったという。その喜びも束の間小岩井農場からは製品が粗悪で使用できない旨の連絡をうけ、工員数人派遣し石の臼と石の杵持参で現地で3ヶ月程製粉し辛うじて納品したという笑えぬ実話があったのでした。

ここで盛岡小川村貞助とは貞三郎の直きの弟で明治355月頃松川小学校卒業後盛岡の県立農学校に入学していますが、成績もよく、誠実さを認められ天下の財閥の経営する小岩井農場に就職、以来順調に昇進し多くの人の信頼されるところとなり、当時雫石校長の川村介助氏に請われ、娘「のぶ」と結婚養子となったのでした。以来小岩井農場耕うん部長となり58歳で死亡するまで9人の子供を全部大学課程を修了させそれぞれ主婦、教師、獣医、公務員、会社員と社会的地位の高い道を歩んでいます。最後は小岩井農場葬によって葬儀が行われ盛岡報恩寺に埋葬され多くの人々に線香を戴き小岩井農場で業績を聞いて驚いたものでした。

話を戻しますが、東北砕石工場は採鉱方法の近代化、砕石の製粉の動力化販路の拡大と著しい進歩を遂げたものの膨大な資本は借金に頼り、その結果次第に金利の圧迫をうけ、加ふるに需要の低迷は会社の経営を困難なものにして行くのでした。貞三郎は乗り出した船だ進まなければならないと殆どの財産を投入して起死回生を期したのですが、会社は困窮の極に達していたとき、工場長東蔵は昭和5年初夏、花巻の渡辺肥料問屋を訪ねたとき宮沢賢治の名を教わり病気治療中の賢治を見舞ったのがキッカケとなり、賢治から石灰の効用や化学的知識を教示されるのでした。賢治も病も癒え次の仕事を考えているときだったので大変乗気で父の許しを得て東北砕石株式会社の技師として迎えられ、昭和61月辞令交付を受けています。その後の賢治の働きは見違えるものがあります。

寝食を忘れてと東奔西走資金の調達から製品の販路拡大、品質向上の手段、会社は生れ変るような明るさだったという。石灰の注文が僅か半年で2倍強で夜を徹しての工場操業だったということから十分伺うことができましょう。更に賢治は化粧煉瓦炭酸石灰の見本をもつて東京に活路を求めるべく重いトランクを運んで上京、途中仙台に一泊、折悪く旅館の隣室の宴会で睡眠不足と翌午前四時の汽車で窓際に寝込み、窓の風に冷やされ遂に風邪を引き、上野で発熱し旅館に伏す身となり、10日位して郷里花巻に父に連れ帰されています。無理いえば無理、日頃の疲れと相まって賢治の身体は次第に衰えていくのでした。従って東北砕石工場の方は火が消えたような淋しさだったといいます。

従って賢治が亡くなって間もない昭和9年倒産し、工場一切を広島県の事業家岡本氏に売却したのであります。東北砕石株式会社は創立10年にして幕を閉じた訳です。従事した関係者の悪戦苦汁が偲ばれます。貞三郎もその後強い喘息を患い昭和151月淋しく他界してしまいました。 母ソノも2年後の昭和17年に死去しました。会社創立からその裏にあっての母の忍従というか耐乏というかその苦しみは並大抵でなく到底筆舌に書せないものがありました。しかしその貧乏苦しみが私達にはいい薬だったと思う。と云い、目に光るものをみるのでした。

物語が終わり以後、関の畑は貞雄兄を中心に一家揃って頑張ってきました。これからというときに亡くなった貞雄兄も無念残念と思うことであろうが、兄の気持ちを受け継いだ時市君を中心に兄弟手を携えて頑張ってきた今日、貞雄兄の考えていた以上に理想の家族ができたのではないでしょうか。

先程、貞雄兄が父貞三郎は得るところがなく空しい生涯と申されましたが、私は東北砕石工場は二つの大きな財産を残したと思います。 その一つは石灰という、石から粉にするということ、石灰工場の夜明けの創始者として、東山町の後世に大きな足跡となっているのではないだろうか。その二つは宮沢賢治が東北砕石工場に心身共に打ち込み宮沢精神を実践したということ。賢治の詩「まづもろともかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」は賢治の根本思想と推されますが、感極まって人生何かをして社会のために役立たなければと心をかりたてられるのであります。この二人の精神は永しいに皆の胸に輝くことを信じています。

 

尚、鈴木東蔵、鈴木貞治の奮闘努力の面影も何時の世にか語り継がれることを期待しております。 最後に貞三郎、貞雄を育てた地域の皆さん、親戚の皆さんに敬意と感謝を捧げ私の思い出話を終わります。ありがとうございます。

                               合掌

    1987710日 大東町摺沢胆馬崎12-4  青柳重雄

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宮沢賢治と私の実家の話を総括すると、石灰工場を通し小さな個人が力を出し合い、世の中に何らかの役割を果たすために努力した、それが次ぎの世代が生きるために必要な職場となり、その職場から出た石灰が日本の農地改良に役立った、といえると思います。この中から私達が学ぶことがあるとすれば、どの時代に生きようと私達個人は、社会のために何かをしなければならない役割を持っているのだ、ということだと思います。    (了)

 201412月