LEGO社の社歴(2)20230815

レゴ社の社歴(その2)

レゴの業績はゆっくりと進展し、オーレは国外に向けた販売も検討すること始めた。1930年代の終わり頃になって、ビルロンド(Billund) のレゴ社は、ユトランド以外の場所においても知られる会社になり、年間の売上は4万クローネ規模となり、1939年の年間売上は5万クローネと伸びた。売上が伸びた背景には木製の動物が好評で半自動のアヒル、赤い国鉄の特急行車、人形車など異なった車の模型など、男女の子用の玩具としての種類は増やしたことが、売上が伸びた理由である。

オーレは国外販売の可能性を模索するため、ドイツの展示会に出展し、その場で出展物の見聞をし、それの模倣をした。特許申請制度が出来ても、この頃、模倣に関してのチェックはうるさくなかったこともあり、メーカー同士の模倣はまれではなかった。1938年国外販売の可能性を見出すため、レゴは「スカンジナビア諸国とイギリスにおける木製玩具の販売への可能性について」外務省の見解を聞いた。結果、外務省から各国の輸入元のリストと住所、国毎の関税率、とレゴ社のプロフィールと製品に関する問い合わせが入った。高度な質を求める業者はドイツの安物玩具には関心を示さなかった。それに反しオーレは安物の材料は使うことはしなかった、塗装において十分下塗りをし、品質検査を通し傷のない完成品を作った。玩具の材料はブナ材を使い常に良質の材料を使うことにした。玩具用の木はビルロンド(Billund )に運びそこで乾燥させて使った。レゴは当初から高品質の物作りに徹底した。オーレの子供用の玩具は、大人の遊び道具への見方を変える結果にもなった。

1941年12月西部ユトランドで若くして大工の資格を取ったベンハードは、寝泊まりと食事付で週35クローネの賃金でレゴに就職した。従業員は高齢の女性、大きな子供の、全部で18名で、資格を持った従業員はベンハードのみであったが、仲間との労働環境は良く、仲間意識が強かった。週の労働時間数は49時間、デンマークはドイツに占領され電力供給は配給制だった。ベンハードの通常の労働時間は午前7時に始まり、午前の休憩30分、昼休み1時間で昼食は温かい食事を母屋(ライオンの家と呼ぶ)で取った。そして午後のコーヒー時間として30分の休憩、これも母屋で取っていた。終了は17時30分であった。その後後片付けと掃除であった。ベンハードには、家族の一員となって食事をとることは大きな喜びであった。食事を作り用意したのは全てソフィアと女中だった。オーレは食事前のお祈り「親愛なる神様、あなた様の贈りものに感謝します、アーメン」をした。

1942年厳しい寒さの三日月夜、ベンハードは仲間に起こされた。一階から変な音が聞こえて来ているためだった。急いで起きて階段をおり、作業場のドアーをあけた、火は乾燥している木に移り作業場一杯に燃えていた、母屋に走り火災を伝えた。その夜は吹雪でビルロンド全域電線と電話線が切れ停電したため、殆どの電話も不通になっていた。それでも何とか隣町からの消防車がかけつけ消火にあたった。風向きと消火作業の成果で母屋は火災から免れた。火災の被害額は7万から8万クローネ、それに同額に相当する受注品を失った。ただ保険会社から出る金額は6万クローネほどであった。3回の火事の被害を受けたオーレは「試練は勝ち得るための過程なのか」彼は寝室に入り神に祈った。オーレはビルロンドから別な場所に移ることも検討したが、結局同じ場所に工場を建てることにし融資を受け、1942年の夏遅くに工事に入った。赤レンガを使っ工場は地下付きの2階建て、この当時としたら最も近代的建物が同じ年の暮れに完成した。工場の再建中の非常事態における生産活動はオーレが以前に建てた家政科学校の一部を借り、工場が完成した後に大量生産として使えるモデル作りをした。資金繰りは火災の後、新聞に「完売セール」広告を出し、母屋に保管し火災の被害から免れた在庫を販売し多くの売上があった。この売上で得た収益は兄弟から借りていた借金の返済に充てた。デンマークはドイツに占領されていたが、市民の手にはお金はあったが、物不足で買うものが無かった。親はそんな中で子供にだけはみじめな思いをさせたくないという気持ちがあったためか、レゴの玩具は良く売れた。1940年の売上高は74,000クローネで、1945年は357,000クローネと急増した。デンマークは5年間ドイツの占領下におかれていたが、この5年間のレゴの売上高の総額は100万クローネを越えたと語られていた。従業員数は1939年から1946年の間に4倍に増えた。ドイツ軍の統治下でオーレは反戦運動(不法な地下運動)のメンバーに加盟していたが、ドイツ軍との関係は礼に反しない程度の付き合いをしていた。1944から1945年デンマークの地下運動のメンバー数は男女含め5万人と言われ、彼らや彼女たちは町の治安と反戦運動に加担していた。オーレは直接破壊活動には参加しなかったが、イギリス軍が投下した武器弾薬の運搬や保管に大きな役割を果たした。1944年オーレは古い借金を清算し、倒産から逃れるための手段として、妻のソフィアに、母屋や工場を名義とした個人会社を、親子が所有する資本金5万クローネの「玩具製造Lego、Billund株式会社」と改名しオーレは社長と会長職に就いた。運営はオーレの他、ソフィアと4人の息子が理事会のメンバーに就いた。急増する売上高を基にして1946年製造部門の子会社を設立しその代表にオーレが就いた。親会社の業務はマーケティングとセールス、オーレは製造会社の責任を持つことにした。

戦後まもなくにして(デンマークの終戦日は1945年5月4日)グーフレ(オーレの三男1924年生まれ)は長年かけて木で作った半自動の玩具ピストル(平和のピストルと呼んだ)を市場に紹介した。このピストルとその玉は大好評で生産が追い付かなくなった。ビルロンド における木の材料不足と塗装剤不足が始まったので、オーレは木材以外の材料を使うことを検討し、ベークライト(Bakelit注1)は玩具製造業者の間では知られた材料で大量生産に向いた材料であった。(注1)Bakelitとはベルギーの化学者が1907年頃に発明したフォルムアルデヒトと石炭酸からなる人造繊維のことである。

人造繊維としてのプラスチック材に関しても研究開発が進められていたが、デンマークでは玩具製造の材料して使うことはしていなかった。それでも1946年頃からプラスチックを使った雨合羽、靴などがデンマークの市場に出回り始めていた。1947年デンマークの新聞にプラスチック材による玩具は健康面、安全面、摩耗面において理想の材料であると報じられた。

55歳になったオーレは起業家として再度、この材料をもとにした玩具作りに取り組むことになった。グーフレは父親が考えたプラスチックを材料としてピストルの輸出に向け大量生産が可能となることを知った。1946年1月木材以外の材料を使った玩具の試作品の製造を、従弟で鍛冶屋の資格を持つマーチンと計画した。計画ではベークライト材またはプラスチック材を使い「平和のピストル」11,500丁をコペンハーゲンに所在してたマーチンの地下作業室で鋳造することであった。オーレは、出来た「平和のピストル」は国内市場向けとし、上手くいったら国外にも売ることにすると手紙でマーチン伝えていた。空いていたマーチンの地下作業室に鋳造機械や鋳造型を据え付け、削り機械など数多くの機器を取り揃え材料として5トンのプラスチック紛材を運び込むという計画は1946年において大変なことであった。二人が判っていたことはプラスチック材を使った「平和のピストル」鋳造機は一時間当たり160丁の半型(二枚合わせ半型)を生産するということであった。これに反しベークライト材料を使った機械だと僅か15丁しか生産できないことであった。ただ、プラスチック材の鋳造機械の価格はベークライトの機械に比べ6倍と高く、投資に見合う価値があるかどうか疑問であった。

オーレは資金繰りが厳しい中で、高価なプラスチック鋳造機械に投資することを決めた。プラスチック鋳造機械はイギリス製で3万クローネと高く、レゴの利益を超えていた。この他に関連諸経費としての研磨機、紛材、ばね、ネジなど含めると、「平和ピストル」の生産に伴う設備投資額は5万クローネになった。 第二次世界大戦後の不安な社会の中でこれだけのお金を投資し、投資が見込み外れになり、最悪の場合は会社の倒産の危惧があったにも関わらず、オーレが決めたプラスチック材を基にした玩具作りは、過去において幾度も倒産になりかけたオーレにとっては、それ以上失うものはないという気持ちがあった。イギリスに発注したプラスチック鋳造機械の納品が11月になること、プラスチック材の入手も困難、クリスマスプレゼント用として販売を予定していたピストルの生産が間に合わないとう事態になった。困難な状況の中、オーレは諦めることはせず、高いがアメリカ製の機械があることも知った。1946年8月ストックホルムにおいてアメリカの機械の展示会があることを知ったオーレは、従弟のマーチンを同行しストックホルムに出張した。その機械は見込み通り優れた機械であった、機械の値段は53,000クローネと高額であったがオーレは注文した。但し第二次世界大戦後における輸出入業務では、注文時に支払いをする必要はなく、1946年~47年冬オーレが注文した2台の鋳造機械は見ることが出来なかったが、支払いをすることも無かった。鋳造機械の入荷が遅れたが、それ以外の工具や研磨機など数多く、ほこりをかぶってマーチンの地下作業場に眠っていた。オーレはマーチンの作業場に置いてある、プラスチック製造関係装置を全部、ビルロンドに移すことを決めマーチンとその家族もビルロンドに移ることを提案した。マーチンはその提案を受け、1946年11月ビルロンドに引っ越しした。

1947年春オーレはイギリスに発注していた機械(Windsor SH-3)の入荷を待っていた。アメリカに発注していた鋳造機械はキャンセルしたが、業務を継ぐオーレの三男グーフレは父親との間にプラスチックの玩具生産に関し、意見が合わなく、イギリスに発注していた鋳造機械もキャンセルすることを願っていた。グーフレにはプラスチックの玩具製造は期待に添わず、金が食い虫であること, 将来の業績を上げるとういう見通しもないと見ていた。そんな中1947年の初夏、レゴ社にとって決定的な異変が起こった。イギリスの鋳造機械の仲介業者が色とりどりのプラスチック材で作った小さいレンガのようなブロックを持参しレゴ社を訪ねて来たのである。レゴ社が発注していた鋳造機で作ることが出来るものであると語ったのである。当初オーレ以外は販売店含め、プラスチックのブロックが玩具として売れることはないと思っていた。プラスチックで作ったブロックは「Automatic Binding Bricks」という名称で販売されたが、デンマークの市場の反応は悪く売れ行きは良くなかった。グーフレはプラスチックで作った玩具は大嫌いで、兄弟そろって木で作った玩具の生産に集中すべきだと父親(オーレ)に訴えでたのである。オーレは息子たちの苦情を聞き終えた後、息子たちに伝えた言葉は「お前たちは信仰が足りないのではないか、俺は神に願い、ブロックを信じている(ブロックでの業績発展を)と語り、「我々は神の手にゆだね、神は何とかしてくれることを信じるのである」と語りレゴ社の将来を決めたのである。そして1950年代に入りプラスチックで作ったブロックの組み立てが市場に出回り始め、オーレは鋳造機械の仲介業者が持参して来たイギリス製のブロックの改造し、世界中に特許申請をしたのである。

・・・・・・ 以下 レゴ社の歩(年表)・・・

1916年 Ole Kirk Billund に移住

1932年 最初の木で作った玩具生産

1936年 Lego 名称を発表

1946年 プラスチック鋳物機購入(注文)

1949年 Automatic Binding Bricksとして販売

1955年 遊びとしてのLegoシステム

1956年 ドイツ市場への販売開始

1958年 近代的レゴブロック製造

1960年 火事、木製玩具製造停止

1961年 アメリカへの輸出開始

1962年 Lego-hjulet (レゴの車輪)

- Billundに飛行場を開設、但し2年後1964年行政管理となり今日では7つの市町村が投資する株式会社である。年間の乗客利用者数は約380万人(2022年)でコペンハーゲン空港に次ぐ大空港である。

1966年 モータ付汽車

1968年 Billund にレゴランド開店

1969年 Duplo-klodsen

1978年 ミニチャー生産

1985年 ボストンのMITと共同開発

1998年 レゴ Mindstorms

1999年 レゴ スターウォーズ

2004年 大損益計上

2006年 最初の女性役員雇用

2012年 レゴ 友人

2017年 レゴ ハウス開店

2020年 売上高437億クローネ計上

2021年 売上高553億クローネ

2022年 売上高646億クローネ(約1.25兆円)納税後の利益138億クローネ

従業員数(全世界)24,500人

法人税10億クローネ以上納税会社ランキング(2021年)

① Novo Holdings: 8.3 (約1600億円)

② Kirbi (Lego): 4.3 (約800億円)

③ Danske bank:2.0

④ Forenet Kredit:1.9

⑤ Nordea Danmark:1.6

⑥ Jyske bank: 1.2

⑦ Frecelo: 1.1

       (kilde TV. Midt Vest 1/2 2023)

上記から2021年レゴ社が払った法人税額は43億クローネ(約800億円)となっています。因みにデンマークの法人税率は22%です。

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レゴ社の社歴を読んで思ったことは、オーレの起業家としての信念です。彼の起業家として、また生き方の姿勢にローマ人への手紙5章1~5節の聖句を思い浮かべました。

2023年8月10日

デンマーク・ウアンホイにて

ケンジ ステファン スズキ